OPEC減産合意 だが1973年のカルテルが成立した背景と、こんにちの事情は大いに異なる

やだぁ、昨夜セミナーがあった関係で徹夜したので、不覚にも「寝落ち」していたら、ニューヨーク市場はもう大引けていて……おまけにOPECが減産合意で原油が+5%も急騰してる、、、

というわけで、慌ててこれをしたためています。

僕の心の中では(そんなはずはない…こんな合意は、すぐ崩れる、、、)そういう、素直に受け取れないキモチがムクムクと湧いているわけです。

それを説明するには、どうしてもヨムキプル戦争の説明から入らないといけない、、、
ヨムキプル戦争は、現代の戦争としては第二次大戦でドイツ軍とアメリカ軍の戦車隊が広野で大戦車戦を繰り広げた、いわゆる「バルジ大作戦」にも匹敵するような、激烈な戦車戦でした。

しかも「負けたことのない」イスラエル軍が、緒戦でボロボロに打ち負かされ、焦りから(核爆弾を使用すべきか?)ということを真剣に検討するところまで、追い詰められた戦争でもあります。

OPECの減産、つまり「第一次オイルショック」は、そのようなアラブ社会の一致団結の中で成立したことであって、現在の、いろいろな利害が交錯する状況とは、似ても似つかない状況だったのです。

そもそもイスラエルは国連の決議でアラブ社会の反対を押し切って国家が成立した直後に勃発した独立戦争、そして1967年の「六日戦争」という二つの戦争で、完膚なきまでアラブに勝利します。

その頃のアラブ社会のリーダー的存在はエジプトのナセルだったわけだけど、「六日戦争」で負けた後、ナセルのカリスマは、影が薄くなりました。

ナセルの後を継いだサダトは、ナセル同様、軍人ですが、「基本的に、あいつは無害、かつ無能だ」という評判があり、過小評価されていました。

ところで当時のイスラエルの諜報力は抜群であり、サダトの動静は、モサドに筒抜けになっていたのです。これにはサダト政権の中核に居る、アシュラフ・マルワンというサダト政権のスタッフが、イスラエルのスパイになっていたという事情があります。

この途方もない情報ソースがあったことで、イスラエルの国防に対する身構えが「なまくら」になってしまい、油断した……とすら言えるかもしれません。

そこでチョッと脱線して、アシュラフ・マルワンという人物を紹介すると、彼はパイロットからクーデターでエジプトのリーダーになったガマル・アブデル・ナセルと同様、エジプトの軍隊でキャリアを上りはじめるのですが、若手将校時代にテニスを覚え、ヘリオポリス・スポーツ・クラブでオフの日にテニスにいそしみます。

そのヘリオポリス・スポーツ・クラブはエジプトの上流社会の社交の場であり、そこにナセルの娘さん、モナもテニスをしに来たわけです。モナはカイロ・アメリカン大学の女学生で18歳でした。その時、二人は知り合ったわけです。

ナセルはとても清廉潔白な人柄で、大統領になった後もオンボロのオースチンが愛車でしたし、袖の下とかも一切、受け取らない主義でした。子供の教育にも厳しく、特権階級としての振る舞いは、一切してはならないと厳しく子供たちに申し伝えます。家も下士官時代に住んでいた土塀の家にずっと住み続けたのです。

そのような人柄が、カリスマとしてのナセルの人望を、いやでも高めたわけだけれど、ナセルの子供たちの中には、取り巻きからチヤホヤされて、勘違いをしはじめる連中も居た……それが末娘のモナであり、その旦那になったアシュラフ・マルワンというわけです。

アシュラフ・マルワンは若手将校の中ではとりわけ出世の野心のある男で、ナセルというアラブ世界に君臨するリーダーの末娘と結婚したので、出世の道が開けます。そしてナセルの首席補佐官、サミ・シャラフのアシスタントになるわけです。これはイメージしやすいように喩えて言えば、ヒラリー・クリントン国務長官の補佐に相当します。

アシュラフ・マルワンはその立場でロンドンに赴任し、ロンドンの華やかな社交界に出入りし始めます。ナセルは自分の親族を特別扱いすることをしなかったので、ロンドンで生活する生活費が苦しかったです。そこでエジプトに関する情報をイスラエルに売り始めたのです。

ナセルが死ぬと、その後任には誰からも「あいつは無害だ」と軽く見られたサダトが大統領になります。実はサダトは、たいへん思慮深い策士であり、「能ある鷹は爪を隠す」を自ら実行し、消去法で自分が大統領に推されることをじっくりと計算していたのです。

サダトはエジプト軍の中には自分の出世を快く思わない連中も居ることを知っていたので、ロンドン駐在でエジプト軍の中枢とは少し外れたポジションにあったマルワンを、自分の側近として抜擢します。

こうしてサダトは、こともあろうにモサドに情報を売っているマルワンに、軍部にすら伝えない国家の最高機密を、全部、託してしまうのです。

サダトは「六日戦争」の恨みを晴らすために、着々とエジプト軍の改革に乗り出し、軍規や士気を高め、ソ連やフランスから兵器を購入し、戦闘力を高めて行きます。だからエジプトが最新式のT62戦車、スホーイSu17戦闘機、SA3、SA6地対空迎撃ミサイル、ストレラ対戦車誘導ミサイルなどの兵器を購入していることは、全てモサドの耳に入っていました。

しかしイスラエルが最も恐れていたことはエジプトが核開発に乗り出すか? という点であり、それについてはエジプトは核開発をやっていませんでした。これまでの戦争に全てイスラエルは勝ってきたので、(今回もどうせ大丈夫だろう)という慢心し切った態度になっていたのです。

1973年10月6日、エジプトはシリアと謀ってユダヤ教の祭日、ヨムキプルの日にエジプトの対岸のシナイ半島と、シリアとイスラエルの国境にあるゴラン高原という別々の地域で、同時に進攻を始めます。

そのことはマルワンからモサドにも1日前に連絡が入り、イスラエルは緊急に国民に招集をかけ、戦争準備に入ります。

緒戦ではエジプト軍がスエズを渡り、戦車をどんどんシナイ半島へ送り込みます。

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(出典:ウィキペディア)

これに対してイスラエルは後方から戦車をどんどん送り、シナイ半島の砂漠で両軍が激突するわけです。ところがエジプト軍は歩兵を砂漠の窪地に潜ませ、イスラエルの戦車が至近距離に近づくとワイヤーによってリモコン操作できるストレラ対戦車誘導ミサイルを次々に発射します。

この戦いで、あれよあれよという間にイスラエルは140台の戦車を失い、スエズの陣地を守っている守備隊は孤立してしまいます。

あわてて空軍による援護をしようとして戦闘機を送り込みますが、それはエジプト軍のSA5、SA6地対空ミサイルの餌食になり、つぎつぎに撃ち落されたのです。

その一方でシリア軍はゴラン高原でイスラエル軍と激突し、イスラエルは(もう駄目だ、核兵器を使うしかない)というギリギリのところまで追い詰められます。

一方、このドラマが展開しているちょうどその時、OPECはウイーンで会議を開いていました。これはユダヤとアラブ世界との戦いなので、ウイーンに集まった各国の石油大臣たちは、ラジオ放送に釘づけになります。「なにか、我々もやらなければいけない」そういう危機感を募らせたわけです。

それで「もしアメリカが今回の戦争でイスラエルを支援したら、石油を値上げする!」ということをクウェートのシェラトンホテルに場所を移したOPECのメンバーたちが合意します。

案の定、アメリカはイスラエルを支援することを決め、OPECはそれを合図に値上げを発表したというわけです。




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